長岡市で行われたエンジン01の夜楽のお手伝いをさせていただきました
去る2月19日に行われた「エンジン01文化戦略会議オープンカレッジin長岡」のイベントの一つである”夜楽”のお手伝いを長岡商工会議所青年部として、させていただきました。
「エンジン01文化戦略会議」とは
エンジン01(ゼロワン)文化戦略会議は、各分野の表現者・思考者たちが日本文化のさらなる深まりと広がりを目的に参集したボランティア集団です。日本は既に誇るべき文化を持っていますが、新しい文化が生まれ育つ土壌がありません。それを築くための方法論を議論し、実際に仕組みとするために行動する場がエンジン01です。
このエンジン01に所属されている100名を超える著名なメンバーが、長岡に集結し、3日間にわたって互いの様々な文化にふれ、交流して長岡の魅力を再発見しようという一大イベントでした。
私も正直、全然知らなかったのですが突如長岡での開催が決まり準備段階からわずかながらお手伝いをさせて頂き、貴重な経験をさせて頂きました。
「オープンカレッジ」という昼間に行われた講習会の方ではなく、「夜楽」と呼ばれるイベントのお手伝いをさせて頂きました。「夜楽」とは、講師陣が市内の酒蔵や飲食店など20ほどの会場にわかれて、夕食やお酒の席で市民との懇談を深めるイベントです。
私は「割烹 魚石」様会場担当で、こられた講師はなんとAKB48のプロデューサーとして今話題の秋元康さん!その他にも造顔マッサージで有名な田中 宥久子さんなど著名な方ばかりでした。(みなさん著名な方ばかりなので当たり前ですがw)
夜楽に来られていたお客様は、割合としては女性の方が多かったので、造顔マッサージの田中さんが大人気でした。ちょっとした行列が出来るほどで、簡単なカウセリンクやマル秘テクニックを披露するなど大いに盛り上がりました。
実は私の母も双眼マッサージのファンで、この前実家に帰ったときは私の顔もオイルを塗ってマッサージしてくれたほど。あとで大いに母に自慢することが出来ました(^^)
秋元康さんはどちらかと言うと物静かで、正直はじめは近寄りがたい感じでしたが、だんだんとお酒を注いだりし合いながら和んでいき、最後は講師とお客さんが一体となって円陣を組んで語り合うような形となり、お客様にとってもまた私にとっても非常に貴重な体験をすることが出来ました。
また元おニャン子クラブで秋元康さんの妻である高井 麻巳子さんも同席されておりどちらかと言うと、青年部の間ではこの高井さんと同席できたことを羨ましがられました^^; 私は、世代ではないので正直よく分からなかったのですが。。。
夜学の最後には、ウエルカムパーティで司会だった新潟お笑い集団NAMARA代表の江口様が新潟への熱い想いを語って下さり大変感動し、惜しまれつつ無事役目を果たすことができました。
実は、夜学の最中は予想外のことも起こったりしたのですが、みなさんのフォローのおかげで素晴らしい会になりました。本当に貴重な体験とお話ができ、お手伝いさせて頂いたことに感謝です。
今後、このイベント成功をきっかけにまだまだイベントを企画されているそうですので長岡市のホームページなど随時チェックしてみてください。
こういったイベントは準備や調整など大変なことが多いですが、ぜひ継続して続けていき、一人でも多くの方に体験して頂きたいなと思います。
WordPressに日本公式マスコットキャラクターが登場したそうです。
WordPress公式サイト
http://ja.wordpress.org/2011/02/19/wordpress-japan-character/
なんとも愛くるしいキャラクターですね。
このキャラクターの名前を現在募集中だそうです。
我々FUCOもネーミングに参加しましょうか。
よろしければ弊社のWordPress構築・導入サービスについてご覧ください!
→FUCO「WordPress構築・導入サービス」
エンジン01のウエルカムパーティ(長岡ニューオオタニ)のステージスタッフとして
お手伝いをさせていただきました。
実は昔、演歌歌手やアーティストのステージ設営をするバイトをずっとやっていたので、懐かしい感覚がよみがえってきて楽しくお手伝いすることができました。途中、ちょっとしたハプニングもありましたが、スタップ皆さんのフォローのおかげで無事、役目を終えることができました。
会場は、地元の郷土料理や食材がならび、それらを作って販売しているおばちゃん立ちの温かいおもてなしで大いに盛り上がりました。パーティ終了後、スタッフの方への料理の振る舞いがあったので色々食べさせていただきましたが、どれも本当に美味しかったです。特に、米粉を使ったロールケーキが絶品でした。
また、人づてやネット上で前々からお会いしたかった経営者の方と偶然お会いでき、お話させていただいたので、個人的にも大変有意義でした。
長岡の手作り感があふれ、来ていただいた講師の方々に素晴らしいおもてなしができたパーティだったと思います。
私はコーヒーが大好きで、いつもオフィスで淹れて飲んでいます。一時期は手で豆からひいて、美味しく淹れる方法を模索していました。いろいろ試した結果、淹れ方を模索するよりは豆を良いものに変えたほうが手っ取り早く美味しくできることが分かってきました。
なので今は、効率も考えてコーヒーメーカーを使っています。
そんな中で良い豆を日々探し求めているのですが、現在、私がひいきにしているコーヒー豆の通販をやられているお店があります。
そのお店はメルマガを発行しており、(コーヒー豆だけにマメに送られてきますw)
コーヒーについての想いや豆知識が定期的に送られてくるのです。
そのなかで今ニュースになっているコーヒー価格の値上げについてふれられていました。
やはり、コーヒーの値上げが心配で「ただでさえちょっと高いコーヒーなのにこれ以上値上げされたら困るよー」という問い合わせをしてくるお客様が多いそうです。
そんな中で店主の答えは「ご安心を。当分値上げの可能性はありません」と言い切っていました。
値上げしない理由は「経営努力してコストを下げます、頑張ります!」ではなくて、もともとこのお店は、店主が取引市場に関係ない形で直接コーヒー豆を調達しているからなんだそうです。
今は、コーヒーの取引市場が高騰しており、大手の大量に安いコーヒーを扱う業者が困るだけで
直接取引をして高い豆を調達しているお店は影響がないのだそうです。
しかも、中間マージンが殆ど取られないのでその分は安く調達できているのです。
このお店が値上げをしないとなると、コーヒー豆の値段が相対的には下がったことになるので、既存のお客様もちょっとトクした気持ちになりますし、新規顧客も増える可能性がありますよね。
値下げも時には必要かもしれませんが、良いもの直接選んで買い付け、それを適正な価格で売るというやりかたの方が、お客様の信頼を勝ちとり、支持され続ける商売になるのだと思います。
業界は違いますが、市場に振り回されず価値ある商品やサービスを適切な価格で商売することの大事さを改めて感じました。
今の情報社会の中では、本当にいいものだけが生き残り、品質の悪いものは淘汰されていく傾向にあると思います。今後はこの本当に良いものでかつリーズナブルであるものだけが、生き残っていく時代になるのではないかと感じています。
NAZE広報部会に参加してきました。
来年度の広報事業についての話し合いでした。来年度は、やることを絞って戦略的に動いていきますよ。
また、18年度に無くなってしまった「豪技(ゴウギ)」が復活しますよ。豪技とは、長岡のものづくり企業のすごい技術、製品をNAZEが豪技として認定していたもの。長岡の方言「そりゃあ、ゴウギだいやー」(訳:そりゃあ、すごい!)が由来です。
今年度から準備しており、すでに豪技認定委員会も立ち上がり、豪技選定委員も選出されました。来年度から、豪技な技術や製品をどんどんアピールしていきます。私も陰ながら、Webマーケティングのお手伝いをさせて頂く予定ですのでご期待下さい。
これってなんででしょうね?
身体的特徴などは遺伝するのに記憶が遺伝しないというのも不思議だと思うんです。
むしろ身体的特徴が遺伝するメリットより記憶が遺伝したほうがメリットのほうが遥かに大きいのではないでしょうか?
少なくとも歴史の授業を受けなくても良いことは確かです。
社長いわく、
「遺伝するメリット、というより遺伝するデメリットが大きいんじゃない?」
というのも、納得できるようなできないような。
我々の思考能力、処理速度が現状と同じであるなら、過去のアーカイブを大量に持つというのは確かに危険です。
しかし、もしも記憶が遺伝するのが常であるならば、処理速度もそれに応じて向上していくはず、とも思うんです。
となると脳の肥大化は避けられませんね。現代の美意識とは程遠い容姿となっていたことでしょう。
もちろん、美意識だって脳が肥大化して頭でっかちになるのであれば、それに伴って変化してくるはずですから、違和感を覚えるのは現代人の我々がもうひとつの可能性を考えた時に感じるだけなんでしょうね。
いや、脳の肥大化というのもナンセンスな発想だったかもしれません。
今日のCPUをご覧になればわかるように、処理能力の向上とともに大型化が進むようなことはありませんでした。
それなりの処理速度を欲するようになれば内部回路もそれに伴って最適化されるのであれば肥大化の心配はないのかも?
別に容姿の心配をしたかったわけじゃないんですが(笑)。
遺伝するデメリットって他にはなんでしょう・・・あ、そもそも記憶が遺伝した場合、それは”個”とは呼べないのでしょうか?
つまり私が父親の記憶をすべて受け継いだ場合、父親mk-2のような存在になってしまうということでしょうか。
派生のような存在であり、オリジナルということではない?いや、この論理だと現状の我々だってDNAを継承しているわけですからオリジナルと呼べるかどうかは微妙になってしまいますね。
・・・オリジナルの定義の話になりそうなのでこの辺で離脱したほうが良さそうです。
最後に仮説を出して終わりにします。
そもそも我々は何も”父親”によってのみ形成される存在ではないわけです。”母親”の存在だって当然あります。
この二つの異なる血脈の記憶は私達がこの世に生み出される前段階で整合性を取る作業が行われるとします。
時間の流れはあくまで直列で、その直列な時間の流れに並列の記憶を並べることができない。
どちらかの記憶を優先させたくても、記憶の優位性の判定基準が存在しないため判定ができない。
その為、両者の記憶は時間軸を基準に等結合を行うしかなく、その結果、我々が認識している”記憶”とは違った形式のデータとして脳内に保存されてしまうんです。
つまり、記憶は遺伝していないわけではなく、”解読ができない”という状態になっているというのが私の仮説です。
「脳は数%しか使われていない」と聞きますが、実はそれは間違いで、過去の記憶が脳内を圧迫しているので、既にそれしか使える領域が無くなってしまっているのではないかと。
・・・根拠と呼ぶにはあまりにも・・・稚拙な論理展開で申し訳ないです。
いつも思うんです、ブログを書き終わると「こんなはずじゃなかった」って(笑)。
世の中には「報われんなぁ」と思わずにはいられない存在を発見することがあります。
私はそれを「歪な存在」として哀愁を感じずにはいられないのですが、昨日も掃除の最中にソレを発見してしまいました。
それは「テレビのリモコン」。
テレビの大型化が進み各スペックは数年前に比べてかなり向上しました。
インターネット機能や3Dなど近年のテレビの進化というのは凄まじいものがあります。
それでも変わらないモノ、それがリモコン。
40型を越えるテレビであろうが、小さいテレビであろうが常にリモコンのサイズが一緒というのはある意味哀しい。
テレビ画面は3Dで飛び出しても、リモコンが飛び出てくるようなことはありません。
この存在を歪と言わなくて何を歪というのでしょうか。
かつてリモコン登場前のテレビは、VHFチャンネルをガチャガチャと鳴らしながら切り替え、UHF帯をまるで金庫破りのような繊細な作業によって切り替えていました。
新潟の寒い冬にコタツから出てこの作業を行うのは決して楽ではありません。
「見たいチャンネルが見れるメリット」と「暖かなところから離れるデメリット」のせめぎ合いです。
まぁなんですか、ウチは親父が帰って来るとテレビを占領していたので、そんなシチュエーションもあまり無かったですけどね・・・今思えばその頃の私も哀しい。
ともかく、そこへきてリモコンの登場です。
これがチャンネルの取り合いを激化させた要因との見方もあるのでしょうけれど、私にとっては救世主でした。
多くの人はリモコン初体験というのはテレビだと思います。私もそうでした。
ボタンを押せば離れた場所にあるテレビのチャンネルが変わるんです。小学生にとってその様はさながら「魔法」。
意味もなくテレビから少しづつ離れてチャンネルを切り替えリモコンの許容操作範囲の限界値を試してみたり、あらぬ角度からの切り替えを試みてみたものです。
そういえばウチの母親が「チャンネルを切り替えてばかりいると電気代がかかる!」みたいなこと言ってたような気がします。この頃の母親も相当哀しいですね。
時代は変わりました。
アンテナからのケーブルに強引にファミコンの接続線を割り込みさせる必要は無くなり、プレステの接続にコンポジットケーブル(赤、白、黄)を直接テレビに接続できるようになり、今日ではプレステ3の接続はHDMIケーブルになりました。
時代の流れは緩やかに人々の生活を着実に潤い溢れるものへと変化させていったのです。
けれどリモコンだけは出会ったあの頃と何も変わりません。
今日も押せばチャンネルが変わる機能を提供し続けてくれています。
そんなリモコンに哀愁、いや、もはや郷愁と言っても過言ではない気持ちを抱くということは・・・変わってしまったのは私だけだったのかもしれません。
と、ここで終われば綺麗なのでしょうけれど、あとちょっとだけ書きます。
人間工学的に考えればあれが使いやすいサイズだということもわかりますし、実は指向性の赤外線だった通信方式が微妙に無指向性のものにコッソリ変わっているのも知っています。
けれど、なぜもっと根本的なことから変わらないのでしょう?
iPhoneなどのようなタッチディスプレイでチャンネルを替えたり、二画面をテレビではなく手元のそのディスプレイに表示したりも容易にできるはずです。無線LANに対応すればテレビのリモコンでメールをみたりブラウザでWebページをみたりと便利です。テレビをわざわざ切り替えてそういった作業をするよりも良いと思うのですが。
ひょっとしてリモコンってテーブルに置かれることが多いので耐久性的な問題からでしょうか?確かに防水でないとすぐに逝ってしまいそうですが。
いつになったらリモコンが報われる日が来るのでしょうか。
Facebookが大量のアカウント停止をしてちょっとした騒ぎになっているみたいです。
Facebookからの正式な発表ではないのですが、どうやらハンドルネームなど「実名」でない登録者のアカウントが停止されているようです。
停止された方々が「実名」にしたらアカウントが復活しているところをみると間違いないのではないかと。
Facebookは「仮想現実」ではなく、あくまで「拡張現実」にこだわっているのだと思います。
私のような種類の人間が「仮想現実」や「拡張現実」と言った言葉を使うと語弊を招いてしまう恐れがあるので、予めこの記事内での定義を述べておきますと、ここでいう「仮想現実」は”バーチャル”つまりあくまで現実とは別のものを指し、「拡張現実」はあくまで”現実”、ひょっとしたら「現実の延長」と言ったほうが伝わりやすいのかもしれません。
話を戻しますが、今回のハンドルネーム登録者アカウント停止事件から察するにFacebookは「仮想現実」であることをヨシとはしないのでしょう。あくまで「現実」であることにこだわっているのです。
もちろん今回のようなアカウント停止をしてしまえば一時的に利用者数が減ることは自明の理。
それでも今回の行動に出た背景には、かなり長期的なWeb戦略、いや、もはやWebという枠組みをも越えて人々の現実に影響力を及ぼす存在になる為の戦略があるのではないでしょうか。
ちょっと想像してみてください。
2099年。世界人口の80%がFacebookに「実名で」登録したとします。現在の電話の世界普及率だってここまでには至っていないと思いますが(笑)。
ここまでいくとFacebookはSNSというレベルではなく社会インフラとして無くてはならないものになることでしょう。
民官のあらゆる組織がFacebookネットワークを利用するようになり、現実世界のあらゆる出来事はすべてFacebookとの関連性を持つに至るであろうことは容易に想像できるというものです。
現在のFacebookの世界レベルでの登録者数は3億人だそうです。
現在の世界人口は約70億人ですから約23人にひとりが登録しているということになります。私の想像は突飛なものでしょうか?
単純に利用者数でいえば未だGoogleのほうが上をいくことでしょう。
しかしGoogleはFacebookとは在り方が違います。
Googleが世界の「Web上の情報を集める」ことを目的としていることに対し、Facebookは「世界中の人間を集める」という目的です。
先の言葉で表すと「仮想現実」がGoogleで「拡張現実」が「Facebook」なのです。
・・・そもそもの在り様が違う二者を比較する行為こそナンセンスではないかと私も今思っています(笑)。
それと、FUCO内部でGoogleAppsなどのGoogleサービスを引き合いに出して論争になる可能性があるので予め潰しておきます(笑)。こんな書き方は面倒くさいですね。
私の勝手な推察に基づく戦略があったとすると、偽名アカウントの停止に至ったタイミングも素晴らしい。
恐らく現在登録している3億人の人々の大半はきっとITリテラシーがある程度ある方だと思います(日本事情だけを鑑みすぎかもしれませんが)。
今後拡大を拡げていくにつれてITリテラシーの低い方の登録も必ずあります。
そのタイミングで今回のような行動に出れば下手をするとアカウント停止の状態で放置されかねません。それでも拡大は続くと思いますが、成長速度は鈍ってしまいます。
「速度の遅さ」は他社の追随を許すことにもなり、それだけでリスクになってしまいます。一気にシェアを伸ばして優位性を、と考えるのは必然ですね。
もちろん、その他にも様々な事情を鑑みての判断だったことと思いますが、つまりは「サービス運営における致命的な要因にならない規模に達したから」ということなのでしょう。
あまり長いこと書くと余計なことまで書いてしまって馬脚を表したようになるのもどうかと思うので今日はこの辺で。
三十六計逃げるに如かず。
昨日はFUCOスタッフで長岡市新産にある「ニコニコ寿司」さんにランチにいってきました。
お寿司を食べながらワイワイしていたのですが、その会話の中で「修学旅行」が話題に上ったんです。
私はかねてより不思議に思うことがあるのですが、この「修学旅行の行き先」というのは誰が決めるものなのでしょう?
教育委員会?それとも各学校に決定権が与えられているのでしょうか。
中学生時代の修学旅行先で多いのは京都・奈良ですよね。これはよくある話なのですが、たまに東京(ディズニーランド)パターンというのもききます。
古都、京都・奈良の「日本の歴史を学ぶ」という目的に対し、首都・東京はどちらかといえば遊び色の強い修学旅行です。
修学旅行が「学習」を前提とするのであれば、京都・奈良パターンは理に適っていると思うのですが、東京ディズニーランドパターンというのは真逆ですし羨ましいお話です(私は京都・奈良パターンでした)。
そして一度「佐渡」というパターンをきいたことがあったんですが・・・どこの中学校か失念してしまいました。
古都か首都か県内なのか。佐渡はカーフェリーなら3時間ぐらいの道のりで時間はかかりますが、テレビを見れば「テレビ新潟」が普通に映ってしまうわけですし修学旅行の実感は薄いかもしれませんね(笑)。
高校生になると行き先パターンもかなり増えますよね。
多いのは北海道や沖縄という日本の両端パターンでしょうか。後は九州パターンというのも新潟県内の高校ではよくきく話です。
他には海外旅行(韓国・オーストラリア)というのもききますね。「京都・奈良」という中学生時代と被ってしまったという悲しい事例も(苦笑)。
こうみると行き先もバラバラですし、「修学旅行」の定義がよくわからなくなってきますね。
というわけで困った時のWikipediaです。
修学旅行
修学旅行(しゅうがくりょこう)は、日本において小学校、中学校、高等学校の教育や学校行事の一環として、教職員の引率により児童・生徒が団体行動で宿泊を伴う見学・研修のための旅行。
特に「宿泊を伴うこと」「行き先がある程度遠隔地であること」で遠足や社会見学とは区別され、「宿泊施設が野営地ではないこと」で野外活動と区別される。
Wikipedia「修学旅行」より引用
「宿泊施設が野営地ではないこと」が修学旅行と他の旅行を区別するうえで重要な条件なのですね(笑)。
ただ、「行き先がある程度遠隔地であること」というのは・・・佐渡は直線距離でいえば近いですし私の主観では「遠隔地」という気はあまりしません。。。
ご覧のあなたの修学旅行先はどこでしたか?
インターネットに関する作業を生業としているとこの「ペイイットフォワード」という言葉をしばしば目にします。
ペイイットフォワードとは「受けた恩をまた別の人に渡す」ことを指すらしいです。日本語では「恩送り」というらしいです、知らなくてごめんなさい^^;
先日の私の記事で消費行動プロセスSIPSについて書きましたが、その消費行動プロセスの根底にあるものを追求していくうちにこの「ペイイットフォワード」に辿り着いたというわけです。
人間というのは本来利己的であると思うのです。
これは決してネガティブな意味ではなく、「自分」を守る為の人間の先天的な防衛本能のひとつとして利己的であるのではないのかと思っています。
例えば原始時代などで「自分」の存命の為には時として他者には食糧を分け与えることがなかったかもしれません。
これは法律の観点からみても容認されていると言っても過言ではないかと。いわゆる「カルネアデスの板」ですね。
沈没した船から投げ出された人間がひとつの板切れに掴まったところに他者がやってきて掴まろうとする。しかし板は二人分の重さには耐えられない。最初に板に掴まった人間は後から板に掴まろうとした人間が板に掴まろうとするのを妨害した結果、後から板に掴まろうとした人間は溺死してしまった。
この場合でも法律では「緊急避難」が適用されて最初に板に掴まっていた人間が罪に問われることはありません。
例として出すには極論すぎたかもしれませんが、この例からも法律が人間が利己的であることを認めていると言えなくもないのです。
ここまでですと人間は利己的で救いようがないようですが、人間の素晴らしいところとしてこの「ペイイットフォワード」があると思うのです。
ご覧の貴方にも経験があると思いますが、口コミで知ったおいしい物を食べたりした時になぜかまた誰かに伝えたくなったことはありませんか?誰かに勧められて楽しい経験をした時にそれを誰かにそれを伝えたくなったことはありませんか?
これはなぜなのでしょう?単純に考えれば「人間がコミュニティを形成するようになったから」なのかもしれません。
しかし、私にはこれが腑に落ちないのです。コミュニティ形成ということであるならば「必要最低限のコミュニケーションにとどめて互いに干渉し合わない」ということも考えられます。
現実にマンションなどでは「隣の人間が誰なのかもわからない」といったこともあると聞きます。必要以上に積極的に近所付き合いをしないなんてのもよくある話です。
本当に不思議なのはここからで、「隣に住む誰か」には自分が使った商品を勧めたりはしませんが、インターネット上で「顔も知らぬ誰か」に向けてはその行動をとるんです。冷静に考えてみるとこれってかなり不思議なことだと思うんです。「人間」と接している感が無いから抵抗があまりないのでしょうか?
この段階において前述の「人間は本来利己的」に照らし合わせて考えるのであれば、「顔も知らぬ誰か」に【恩を売る】よりも「隣人」に【恩を売る】ほうが利己的な行動といえます。
しかし人間はそうではありませんし、そもそもインターネットで自らの商品・サービス購買の満足体験を紹介する時に【恩を売る】なんて考えもしません。
私は未だこの「ペイイットフォワード」の行動原理については有用な仮説を見出せないでいます。
ここがSIPS理論の根底にあるものだとは思うのですが・・・宗教的観点からなら結論に至るのは簡単なのです、「汝隣人を愛せよ」です。Web的にいうと「汝閲覧者を愛せよ」というところでしょうか(笑)。
その心理を利用してマーケティングの指針にしようというのは、人間の一番柔らかい部分(抽象的でごめんなさい)を利用して商品を売るような気がしなくもないです。
人間は本来利己的であると同時に、互助精神もデフォルトで備わっていると信じたいものです。